『極端なニュアンスや本格的なフォルティッシモやピアニッシモは極力これを避けねばならない』と具体的に解ってはいるけれども自分に出来ないジレンマ

不滅の指揮者、不朽の名盤

俺には経験も実績も優っているのに、あの若造に出来ることが出来ないんだ。『極端なニュアンスや、本格的なフォルティッシモやピアニッシモは極力これを避けねばならない』と具体的に指摘し、テンポについても『極めて緩慢なテンポは、ややもすれば退屈で気抜けしたものと成り、極めて速いテンポは騒々しく不明瞭になりがち』だし、休止と総休止も出来るだけ控えめにすべきだと解ってはいるけれども、自分は上手く出来ないことへのジレンマ。時の帝王と次代の帝王の違いはレコードという『死後も残る名声』の違いにあった。

マエストロのジレンマ

大巨匠フルトヴェングラーが没したのは、肺炎での病死だった。ベルリン・フィルの首席指揮者に在任中のまま後継者を指名できずに世を去った。チェリビダッケを考えていたようだし、ベルリンの新聞はチェリビダッケに風を向けていた。でも、チェリビダッケはフルトヴェングラーとの仲を断ったままだった。
結果、フルトヴェングラーの死後、ベルリン・フィルの首席指揮者はヘルベルト・フォン・カラヤンが後を受けた。病床で知らせを感じていただろうフルトヴェングラーには歯がゆいことだったでしょう。フルトヴェングラーがライバル視して、事あるごとに(あらが)っているのを現代から振り返ると、足掻(あが)けば足掻く程カラヤンの格を上げてしまったように見える。

Erich Röhn violon/violin - Arthur Tröster, violoncelle/cello NDR Orchester, Hamburg, 22.IX.1947

1954年11月30日に68歳で没したフルトヴェングラーの、60回目の命日を迎えた。

1931年にフルトヴェングラーは『音楽の生命力』と題するエッセイを書いている。(『音と言葉』所収)

これからの音楽家にはレコード録音が重要なのを認めていた。良いレコードをつくるためには『極端なニュアンスや、本格的なフォルティッシモやピアニッシモは極力これを避けねばならない』と具体的に指摘し、テンポについても『極めて緩慢なテンポは、ややもすれば退屈で気抜けしたものと成り、極めて速いテンポは騒々しく不明瞭になりがち』だし、休止と総休止も出来るだけ控えめにすべきだと分析している。

実に良く昭和初期のSPレコードの特性を理解していました。でも、その理解していることポイントを彼には充分に活用できなかった。
実際に録音で試みてみたものの、プレイバックを聴いて諦めた。

スタジオ録音においてフルトヴェングラーは一生懸命に、極端なニュアンス、本格的なフォルティッシモやピアニッシモ、極めて緩慢なテンポ、極めて速いテンポを避け、休止と総休止も控えめにしようとした。だが、そうして出来たレコードは平板で退屈なものに成ってしまう。

溝の中の突起物

戦時下でのフルトヴェングラーのライヴ録音は、その時の楽団員の想い、国民の苦悩が代弁されているように感じます。1951年のバイロイト音楽祭でライヴ録音されたベートーヴェンの交響曲第9番は、誰もが戦争が終わったと心のなかに広がった感情が今も私達の気持ちを震わせるのです。と共に、それまでフルトヴェングラーに憑依していたものだったように、その戦後のフルトヴェングラーの音楽は表情が変わる。

録音から60年以上経過しても歴史的録音と言えないほど『バイロイトの第九』は、全てのミュージシャン、音楽愛好家には大きく立ちふさがっているレコードでしょう。
でも、この時の録音は当初は発売する予定がなかった。これは驚いちゃうことですが、フルトヴェングラーの死の直後に発売されると歴史的名盤になるという皮肉な結果と成った。この《第九》が発売された時、カラヤンの前に、これまで立ちふさがっていた大きな敵である現実のフルトヴェングラーに代わって、カラヤンの膨大なレコード録音は、このフルトヴェングラーの『死後も残る名声』と生涯にわたって闘っていただけかもしれない。

CD時代に成り、インタビューでカラヤンは『時間があれば、自分のレパートリーを全てデジタル方式で録音し直しCD化したい』という言葉の裏に、レコードを過去のものにしたい。それにはカラヤン自身のアナログ録音もフルトヴェングラーの全部のレコードも葬って、その上で自分の新録音だけの王国が築かれるのを夢想した。

カラヤンの最初のデジタル録音はワーグナーの舞台神聖祭典劇《パルジファル》(1979年12月録音)だったが、発売はモーツァルトの歌劇《魔笛》(1980年1月録音)が第一弾を飾った。なにより1980年12月から1981年1月の時期に録音されたリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》、ホルストの《惑星》はCDでの成果が大きかった。レコードのA面、B面を、ひっくり返す必要がなく一気に音楽に没頭できた。

KarajanDigital

デジタル録音で“自分のレパートリー”のどれだけをカラヤンは録音できたのだろう。1989年に亡くなる。その後の状況は私達がよく理解っていることだ。

カラヤンの死を待っていたかのように、その年の秋、ベルリンの壁は崩壊した。
終戦時、ベルリンに到達したソ連軍がベルリンの放送局から押収し、モスクワに持ち帰った膨大な料の録音テープがあった。その中にフルトヴェングラーの戦中のライヴ録音が有ることは以前から知られており、そのテープが1987年に返還されていた。
カラヤンが急死した年の暮れ、ドイツ・グラモフォンはフルトヴェングラーが戦争中に演奏した公演のライヴ録音のCDをセットで発売した。

カラヤンが生きていたらどう思ったであろうか。それ以前からもデジタル技術はフルトヴェングラーの過去の傷だらけの録音を新鮮なものに蘇らせ、夥しい数が市場に出たことは苦々しく感じていただろう。

カラヤンがデビューした時にフルトヴェングラーが、ベルリン・フィルでカラヤンがコンサートを行えないようには謀れたけれどもレコーディングまでは口出しできなかったことが、ここで逆転してカラヤンの強力な情報操作でも口出しできなかった。

濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだフルトヴェングラーの音楽は類稀な観念と情念が生き返ってくるのがきこえるもので作曲家たちが楽譜に封じ込めた思いまではレコードでは伝えきれないものだと思います。カラヤンとフルトヴェングラーの音楽は、そこで有り様が分かれ道なのです。

OperaSACD

最終更新日は 2016年, 1月 27日, 水曜日です。

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