テトラツィーニも我が国の好楽家達から不遇な取り扱いを受けていた歌手の一人である。どうして彼女の如き偉大な歌手が、その真価を認められずに終わったかと言うことは甚だ不思議である。
これは恐らく彼女に対して正しい紹介がなされなかった事と、当時は一般の人気が新進のガリークルチに傾いていた為でもあろうかと思われる。
併しテトラツィーニの歌劇界に占めた地位 − 名声と実力の点では到底ガリークルチ輩の及ぶところでは無かった。テトラツィーニは今世紀初頭の最も偉大なコロラトゥラ歌手であり、その盛時はメルバの人気さえ奪ったと伝えられている。又偶々故カルーソーの名唱を再生しようとして、米国のビクター会社が100万ドルの巨費を投じて研究を完成した折り、カルーソーの外に選ばれたのはテトラツィーニだけであったのを見ても、彼女が如何に高く買われていたかがお判りになることと思う。(このレコードは日本でも発売されている。)
彼女の名声は暫く措くとして、試みに彼女の歌ったレコードを一聴してみると良い。例えば『ルチアの狂乱』の歌にしろ、又『セヴィラの理髪師』の『ひそやかな声』にしろ、ガリークルチはもとより他の如何なる歌手も到底企て及ばざる技巧の精緻と、類まれな広い音域を有していて、彼女こそ真のコロラトゥラ・ソプラノの典型的な歌手であることを頷かれるに相違ないと思う。
ここに選ばれた『ラクメのベル・ソング』は彼女の得意とするものの一つであり、事実彼女の真価を最も忠実に示しているレコードでもある。コロラトゥラの歌は一体に派手であり、声の器楽化として動もすれば軽視され勝ちであるが、併しテトラツィーニの芸の偉大さはかかる外形的な絢爛さの中にも一種の犯し難い風韻を蔵していることである。
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