第1幕前奏曲と同じ音楽が、やはり弦楽合奏で始まる。いっそう悲痛な調子で演奏され、アルフレードに愛を告げる音楽はもはや登場しない。切れ切れになったフレーズでひっそりと、弱々しく終わる。前奏曲として同じ音楽を二度使うのは、数あるオペラの中で唯一だろう。同じ音楽が弦楽器だけになるだけで、芯のない不安感を増すものか。ヒロイン、ヴィオレッタの精神状態を表しているようです。
季節はめぐり、冬のカーニヴァルシーズン。
ヴィオレッタの寝室で、肺結核が進行していた。窓の内戸も閉ざされカーテンは、表の様子が伺える程度開いているだけ。窓の外を通り過ぎる人々の賑やかな騒ぎと、ひっそりとした室内の様が対照的。ヴィオレッタの生命は尽きかけていた。
財産はクローゼットにわずかに残っているだけ、使用人は去り召使のアンニーナだけが時折世話に訪れる。
溌剌とした第一幕の演技、色っぽい第二幕の演技、そして儚げな第三幕と歌い分けの難しさとともに、ソプラノの見せ場です。オペラ全体の3分の1はある第3幕ですが、ドラマは殆ど動きのないまま。
幕が上がると、ヴィオレッタがベッドに寝ている。彼女はアルフレードの帰りを今か今かと待ちわびている。
「アルフレードは男爵と決闘した後、国外に出た。戻ってきたら、ヴィオレッタとの交際を許そう。」
何度となく読んだジョルジョからの手紙をもう一度読む(ここは歌わずにほとんど朗読する)。
読み終わった彼女は一言「もう遅いわ!」と叫び、過ぎた日を思って歌う(「過ぎし日よ、さようなら」)。
「ああ、もう全ておしまい」と絶望的に歌い終わると、外でカーニバルの行進の歌声が聴こえる。
医師がやってきてヴィオレッタを診察し励ますが、アンニーナにはもう長くないことを告げる。そこにとうとうアルフレードが戻ってくる。再会を喜ぶ二人は、パリを出て田舎で二人楽しく暮らそうと語り会う(「パリを離れて」)。
しかし、死期の迫ったヴィオレッタは倒れ臥す。あなたに会えた今、死にたくないとヴィオレッタは神に訴える。そこに医師や父ジェルモンが現れるが、どうすることもできない。ヴィオレッタはアルフレードに自分の肖像を託し、いつか良い女性が現れてあなたに恋したらこれを渡して欲しいと頼む。
彼女は「不思議だわ、新しい力がわいてくるよう」といいながらこと切れ、一同が泣き伏すなかで幕となる。
Addio, del passato bei sogni ridenti,
Le rose del volto già son pallenti;
L’amore d’Alfredo pur esso mi manca,
Conforto, sostegno dell’anima stanca
Ah, della traviata sorridi al desio;
A lei, deh, perdona; tu accoglila, o Dio,
Or tutto finì.
Le gioie, i dolori tra poco avran fine,
La tomba ai mortali di tutto è confine!
Non lagrima o fiore avrà la mia fossa,
Non croce col nome che copra quest’ossa!
Ah, della traviata sorridi al desio;
A lei, deh, perdona; tu accoglila, o Dio.
Or tutto finì!
さようなら、過去の楽しく美しい夢よ、
顔のバラも蒼ざめてしまった、アルフレードの愛もない、それだけが慰めであり、支えだったのに、ああ!道を誤った女の願いを聞いてください。
どうかお許しください、神よ、御許にお迎えください。
ああ、全て終わった。
喜びも悲しみも、もうすぐ終わりをむかえる、お墓は、全ての者にとって終末なのです!
私のお墓には、涙も花もないでしょう、私の上には、名を刻んだ十字架もないでしょう!
ああ!道を誤った女の願いを聞いてください。
どうかお許しください、神よ、御許にお迎えください。
ああ、全て終わった。
Null’uomo o demone, angelo mio,
Mai più staccarti potrà da me.
Parigi, o cara/o noi lasceremo,
La vita uniti trascorreremo:
De’ corsi affanni compenso avrai,
La mia/tua salute rifiorirà.
Sospiro e luce tu mi sarai,
Tutto il futuro ne arriderà.
もう誰も、悪魔であれ天使であれ、私たちを引き離せない。
愛する人よ、パリを離れよう、そして人生を共に過ごそう、これまでの苦しみは報われる、君の/私の健康も甦るだろう。
あなたは私の命であり、光となる、未来は私たちに微笑むだろう。
神よ、力を与えてください!・・・『アルフレード、この手紙が届く頃には・・・』
ヴィオレッタはアルフレード宛の手紙を書いて召使のアンニーナに託します。
帰宅したアルフレードに、その手紙が届く頃にはヴィオレッタはもういません。
『ああ!」
手紙を読んで、雷に打たれたかのような嘆き声を上げるアルフレード。振り返ると父ジェルモンがいます。叫びながらアルフレードは父の胸の中に飛び込みます。
「父さん!」
「息子よ!何を苦しんでいるんだ、涙を拭いなさい。そして、もう一度戻ってきておくれ。故郷の海と大地が待っている」。
プロヴァンスの海と大地を、誰がお前の心から奪ったのだ?
故郷の輝かしい太陽から、いかなる運命がお前を奪った?
苦しいのなら思い出せ、そこでは喜びに包まれていたことを。
お前の平穏は、そこにだけあるということを。
神のお導きなのだ!
年老いた父親の苦しみを、お前は知らないだろう、お前が去ってから、家中が悲しみに覆われていた、だが、お前に会えたのだから、希望が潰えなかったのだから、お前の名誉の声が、まだ聞こえていたのだから、神はお聞き届けくださったのだ!
父親の愛情に応えてくれないのか?[/two_third_last]
父親の願いどおりに故郷、プロヴァンスに変えるかと見えましたが、おっとどっこい。一波乱起こらなければメロドラマでも終われない。
アルフレードはテーブルの上に、フローラがヴィオレッタに出した招待状を見つけます。
「彼女はパーティーに行ったんだ!すぐにこの恥辱を晴らしに行くんだ!」
ヴィオレッタの女友達、フローラの屋敷。ちょうど仮面舞踏会が開かれている。
ヴィオレッタとあったアルフレードは復縁を迫るが、ジェルモンとの約束で真意を言えないヴィオレッタはドゥフォール男爵を愛していると心変わりを装います。アルフレードはそれに激高、借りは返したと札束をヴィオレッタに投げつける。自分の真意が伝わらず、みんなの面前で侮辱された彼女は気を失う。
一同がアルフレードを非難しているところに父ジェルモンが現れ、息子の行動を諌める。自分のやったことを恥じるアルフレードと、真相を言えない父ジェルモンの独白、アルフレードを思いやるヴィオレッタの独白、ヴィオレッタを思いやる皆の心境をうたい、ドゥフォール男爵はアルフレードに決闘を申し込んで第2幕を終わる。
自らを軽蔑に値させるのだ、怒りにかられたといえ、婦人を侮辱する者は。
私の息子はどこへ?見ることができない、お前の中に、アルフレードを見つけることが出来ない。
皆の中で私だけが知っている、彼女が胸に秘めた美徳を、私は知っている、彼女の誠実な愛を、だが、残酷にも黙っていなければ!
私は何をしたのだ!恐ろしい。
嫉妬と失恋で魂が引き裂かれ、分別を失くした。
彼女に許してはもらえぬだろう。
彼女を避けようとしたが、出来なかった!
怒りに駆られてここへ来たのだ!
だが、怒りをぶちまけた今、僕はなんて惨めなんだ!自責の念にさいなまれる。
アルフレード、アルフレード、私の心の内、全ては愛のためだとは、貴方には理解できないわね、貴方はご存知ないわ、私の愛がこれほどとは、軽蔑を受けてまでも、その証明をするほどとは!
でも、分かる時が来るはずです、どれほど私の愛が深かったのか。
その時は後悔の念から、神がお救いくださるように、私は死してなお、愛し続けます。
華やかな第一幕から、第2幕では艶やかな音楽と雰囲気に変わります。ヴィオレッタとアルフレードはお互いを求め合って華やかな生活を捨てて、パリの郊外のヴィオレッタの屋敷で静かに暮らすことを選んだのです。
オペラの中核部分で、1幕と3幕を合わせた長さの中でヴィオレッタ、アルフレード、そこにアルフレードを迎えに来た父親ジェルモンが情感豊かな歌と、心通わせる深い表現で魅了します。登場人物は3人だけ、それにヴィオレッタの召使のアンニーナが加わる。
アルフレードがヴィオレッタとの幸福な生活に酔いしれています。
彼女と離れていては、僕には何の楽しみもない!
もう三ヶ月が過ぎてしまった、ヴィオレッタが僕のために贅沢な暮らしや名誉、華やかな宴を捨ててから。
そこでは褒められるのがあたりまえで、皆が彼女の美しさの奴隷になるのを、眺めていたのに。
そして今は、ここの快適な暮らしに満足し、僕の為に全てを忘れている。彼女の傍にいると、僕は生まれ変わる感じがする。
愛の息吹で甦り、彼女の幸せそうな姿を見ると、全ての過去を忘れてしまう。
僕の燃える心の若き情熱を、彼女は穏やかに和らげてくれた、愛の微笑みで!
彼女が「貴方に忠実に生きたい」と言ったあの日から、この世のことを忘れ、天国にいるようだ。
そこへ召使のアンニーナが帰宅します。旅行用の服を着たアンニーナを見て、アルフレードが理由を尋ねるとパリに馬や馬車、持ち物を売却するために出かけていたと返事します。
ヴィオレッタは貴族のパトロンと手を切っていたので、彼女自身の財産を売却して生活費としていたのでした。
アルフレードは、それに気が付かなかった自分を恥じるとともに売ったものを取り戻そうとパリに向かいます。
玄関先の人の気配に、ヴィオレッタがアンニーナを呼びます。訪問者は郵便配達人です。召使のアンニーナがヴィオレッタ宛の郵便物を受け取って、ヴィオレッタのところへ運んできます。ヴィオレッタは郵便物に目を通すと、来客があることをアンニーナに告げます。
程なく来客。アルフレードの父親、ジョルジュ・ジェルモンです。
アルフレードが財産をヴィオレッタに贈ろうとしていることを知ったので、どんな女だろうと会いに来たのです。
ヴィオレッタはアンニーナがパリで売りに出した財産の書類を、父親に見せます。
『あなたは全財産を手放すおつもりなのか?』
『実に立派な心がけだ!』
ヴィオレッタの心情に感じ入るのですが、アルフレードには妹が居て縁談が来ている差し支えるから身を引いて欲しいと頼みます。
そうです。
天使のように純真な娘を、神はお与えくださった。
もしアルフレードが、家族のもとへ戻ることを拒むのなら、娘が愛し愛される青年は、そこに嫁ぐことになっている、あの約束を拒むのです。
私たちを喜ばせていた約束を、どうか愛のバラを、茨に変えないようにしてください。
貴女の心が、私の願いに抵抗しませんように。
ああ、嫌です絶対に!
ご存じないのですね、どれほど激しい愛情が、私の胸のうちにあるのかを?
私には友人も、身寄りもこの世にはいないということを?
アルフレードが、それらの代わりになると、誓ってくれたことを?
ご存知ではないのですか、私の体が病魔に侵されているのを?
すでに最後の時が近いというのを?
それでもアルフレードと別れろと?
ああ、あまりにも酷い仕打ちです、いっそ死んだほうがましです。
迫る父親と嫌がるヴィオレッタ。説得するうちにヴィオレッタの健気さに尊敬は抱くが、結婚話が来ている娘のことを思うと強気に出ざるをえない良い人物なんだけど、保守的な良識を離れることが出来ない父親の姿。ここでオペラのタイトルである「ラ・トラヴィアータ La Traviata = 堕落した女」が後悔と嘆きを込めてヴィオレッタの歌の中に出てきます。ヴィオレッタの生まれ素性はオペラの中で表立って登場しないのですが、ヴィオレッタが娼婦になって生きて行かなければいけなかったのは、江戸時代の花魁と同様な理由でしょう。
ああ、ですから諦めるのです、
そのような儚い夢を、そして私の家族の救いの天使になってください。
ヴィオレッタさん、考えてください。
まだ間に合うのですから。
若いご婦人よ、神様なのです、このような言葉を言わせ給うのは。
ひとたび堕ちてしまった女には、立ち上がる希望などないのね!
例え慈悲深い、神がお許しくださっても、人はそんな女に、容赦はしないんだわ
美しく清らかなお嬢様に、お伝えしてください、不幸にも犠牲を払う女がいると、一筋の幸せの光しか残されていないのに、お嬢様のために、それを諦め死んでゆくと!
ついに要求を受け入れ、ヴィオレッタは身を引くことを決心する。
ヴィオレッタを娘のように感じる父親、ジェルモンを本当の父親のように慕う娘。
娘として抱きしめてください、強くなれるでしょうから。
まもなく彼は、貴方様の許に戻るでしょう、言葉では表せぬほど傷ついて。早く戻って、彼を慰めてあげてください。
みんなが別室に移動して最後にヴィオレッタがついて行こうとした所で、彼女はめまいがして椅子に座り込む。そこにアルフレードが声をかけます。
『こんな生活をしていてはいけません。一年前からあなたを好きです。』
『そのお気持ちだけいただきます。本気にならないでください。』とヴィオレッタは返事します。
ええ 一年前からです。
ある日、幸せに満ちたように、私の前に稲光のごとく現れたのです。
あの日以来私は震えながら、未知の愛に生きてきたのです。
その愛はときめき、全宇宙の鼓動、神秘的にして気高く、心に苦しみと喜びをもたらす。
それならば私を避けてください。
貴方には友情のみを差し上げます。
私は愛を知りませんし、そのような尊い愛を受けることは出来ません。
正直に申し上げます。
他の人をお探しください。
そうすれば、私を忘れることは
難しくはないでしょう。
アルフレードと再会の約束に、椿の花を手渡すヴィオレッタ。一人残り、物想いにふける。
「不思議だわ」と純情な青年の求愛に心ときめかせている自分の心境をいぶかる。そして、彼こそ今まで待ち望んできた真実の恋の相手ではないかと考える(「ああ、そは彼の人か」)。
しかし、現実に引き戻された彼女は「そんな馬鹿なことをいってはいけない。自分は今の生活から抜け出せる訳が無い。享楽的な人生を楽しむのよ」と自分に言い聞かせる。(「花から花へ」)
彼女の中でアルフレードとの恋愛を肯定するもう一人の自分との葛藤に、千々に乱れる心を表す、コロラトゥーラ唱法を駆使した華やかな曲で第一幕は幕切れとなる。
おかしいわ!不思議ね!心の中に彼の言葉が刻まれている!
真実の愛は、私には不幸なのかしら?
私の乱された心よ、どうすればいいの?
今まで心を燃え上がらせる方などいなかった。
今まで知らなかった喜びだわ、愛し合うことなんて!
私はそれを退けることが出来るかしら?
不毛で愚かな私の生き方のために。
ああ、きっと彼だったのよ、喧騒の中でも孤独な私の魂が、神秘的な絵の具で思い描いていたのは!
彼は慎み深い態度で病める私を見舞ってくれて、新たな情熱を燃やし、私を愛に目覚めさせたんだわ。
その愛はときめき、全宇宙の鼓動、神秘的にして気高く、心に苦しみと喜びをもたらす。
無垢な娘だった私に、不安な望みを描いてくれたの、とても優しい将来のご主人様は。
空にこの人の美しさが放つ光を見たとき、私の全てはあの神聖な過ちでいっぱいでした。
私は感じていたのです、愛こそが全宇宙の鼓動であり、神秘的にして気高く、心に苦しみと喜びをもたらすと!
馬鹿な考え!これは虚しい夢なのよ!
哀れな女、ただ一人見捨てられた女、人々がパリと呼ぶ、人の砂漠の中に。
今更何を望めばいいの?
何をすればいいの?
楽しむのよ、喜びの渦の中で消えていくのよ。
私はいつも自由に、快楽から快楽へと遊べばいいの、
私が人生に望むのは、快楽の道を歩み行くこと、夜明けも日暮れも関係ない、華やかな場所で楽しくして、いつも快楽を求め、私の思いは飛び行かなければならないの。
結核で死んでいくヒロインを初演の時に歌った歌手がおデブさんで雰囲気出なかったと、聴衆や批評家から不評をかい2回公演で上演は打ち切られます。タイトルの『ラ・トラヴィアータ』はイタリア語で『道を踏み外した女、堕落した女』を意味します。当時イタリアは統治国側の検閲が有りました。統一されてイタリア王国が樹立されるのは1861年3月17日、ヴェルディが歌劇『椿姫』を上演した頃は分割統治されていました。ヴェルディの両親はどちらもイタリア人ですが、ジュゼッペ・ヴェルディが生まれた時の出生届を提出した役場がフランスの管轄下にあったので、出産したのはイタリアなのにフランス人として記録は残されています。
さて、その検閲で『道を踏み外した女』というタイトル、娼婦を主役にした作品ということで道徳的な観点から「どぎゃんかできんかい」と注意されますが、ヒロインが最後に死ぬということで上演が許された。オペラではヒロインの行動は原作よりもアルフレードとの純愛に偏って描かれており、原作から容量良く主要なエピソードを取り上げて、青年アルフレードとヒロインの『最後の一夜』や、死んだヒロインの墓を青年が暴く場面は描かれない。父親ジェルモンは保守的な良識の持ち主かつ少々偽善的ながら基本的に善人として表現され、和解した父と息子に看取られてヒロインは亡くなっていく。悲劇でも音楽的には明るさ、華やかさ、力強さを失わないヴェルディの特質がもっとも良く発揮されており、ヴェルディの唯一のプリマ・ドンナ・オペラ。とにかくヴェルディとしては、失敗で終わりたくなかったのでしょう。翌年に改めてヴェネツィアのフェニーチェ劇場で再演。その評判は今日ではヴェルディの代表作とされるだけでなく、世界のオペラ劇場の中でも最も上演回数が多い作品の一つに数えられます。
歴史的大失敗を喫したオペラには、プッチーニの蝶々夫人、ビゼーのカルメンも同様でした。どれも現在ではオペラの十八番中の十八番。聞き所盛りだくさんです。
台本はアレクサンドル・デュマ・フィスの小説に基づきフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが書きました。優れた台本作家の功績があったことも大切でしょう。ヴァグナーは台本も自身で創作していますから、客観性という面ではオペラとして描かれていない伝説や、風習の知識が薄いと理解不足になりやすいものですが、ヴェルディのオペラは観劇する人、鑑賞する人が感じるままで楽しめますし、ライトモチーフと言った音楽に意味付けられたものもないことが、人気の源泉となっています。
作品は全3幕、4つの場面になっています。全曲は約2時間20分。トスカニーニ指揮の全曲盤は、放送用の録音でしたので放送時間の2時間に収まるようなカットがあります。又熊本で《椿姫》が上演された時、前半後半の二幕構成にして時間短縮されたことがあります。
主な登場人物は、ヒロインの高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリー。青年貴族、アルフレード・ジェルモン。アルフレードの父親、ジョルジュ・ジェルモンの3人。他にヴィオレッタのライバル、フローラ、召使のアンニーナ、アルフレードの友人、ガストーネ子爵。ヴィオレッタのパトロン、ドゥフォール男爵、ドビニー侯爵や、最後の幕で脈を取る主治医のグランヴィル先生のほか、合唱がそれぞれ個性的な登場をします。
第3幕と似ている音楽ですが、こちらはまだ明るく、そして厳かな印象です。オペラの序曲はファンファーレ風な華やかさで客の注目を集中させる効果がありますが、ヴェルディの評判は確立していましたから、どういうドラマが始まるのか観客の集中は良かったのでしょう。短い音楽です。
哀愁を帯びた旋律を、第2幕でヴィオレッタがアルフレードに別れを告げる場面のメロディーが引き継ぎ、悲劇を予感させながら静かに終わる。
初演の失敗にはオペラでは、100年前に設定されていたことも要因と言えます。原作は現在として描かれているのを、生々しいと考えての配慮だったのか、オペラとしてはフランス革命の時代にあった話とすることで華やかでソフィスティケートなイメージにとどめておきたかったのかもしれません。
高級娼婦という主人公の職業や、ヴィオレッタを取り巻くパトロンの男爵やら侯爵。江戸時代末期と重なるので、ヴィオレッタとアルフレートの関係を吉原の花魁とお金持ちの若旦那。海と陸の美しい田舎がアルフレートの出身ですから、江戸に荷物を運んできて廓通いに夢中になった若旦那、ジョルジュ・ジェルモンはその大旦那かお目付け役の大番頭さんとしたら、日本人としては解りやすい置き換えではないでしょうか。
どこか物悲しい前奏曲が終わると、おしゃべりしているような華やかな音楽に変わる。ヴィオレッタの屋敷で夜会が開かれている。玄関から入ってきたのは、ガストーネ子爵に紹介されたアルフレード。おずおずとしていると、大広間にヴィオレッタが登場して乾杯の音頭と成る。
Libiamo, amor fra i calici
Più caldi baci avrà.
Tra voi saprò dividere
Il tempo mio giocondo;
Tutto è follia nel mondo
Ciò che non è piacer.
Godiam, fugace e rapido
È il gaudio dell’amore;
È un fior che nasce e muore,
Né più si può goder.
Godiam c’invita un fervido
Accento lusinghier.
Godiam la tazza e il cantico
La notte abbella e il riso;
In questo paradiso
Ne scopra il nuovo dì.
酌み交わそう、愛の杯を
口づけは熱く燃えるのだ。皆様と一緒なら、楽しい時を分かち合うことが出来ます。
この世は愚かなことで溢れてる、
楽しみの他は。
楽しみましょう、儚く去るのです、
愛の喜びとて。
咲いては散る花のように、二度とは望めないのです。
楽しみましょう、焼け付くような言葉が誘うままに。楽しもう、酒杯と歌は夜と笑いを美しくするのだ。
この楽園の中で新たな日が、私たちを見出すように。
ヴェルディは1852年から53年にかけての冬、パリに滞在していました。この滞在は実は、アバンチュールでした。この時ヴェルディは、歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニと同棲していました。ヴェルディは生涯に三度の結婚をしています。しかし男と女の関係でしたら、上演した歌劇と同数の女性が居たと証言があるほど色男ぶりでした。このジュゼッピーナとはパリ滞在の5年後にゴールイン。二番目の妻になります。
1853年2月6日、ジュゼッピーナと一緒に出かけたヴォードヴィル座で『椿姫』を観て、いたく心打たれます。この『椿姫』を書いたのはアレクサンドル・デュマ・フィス。同名の父アレクサンドル・デュマ・ペールは『三銃士』、『鉄仮面、ブラジュロンヌ子爵』、『岩窟王、モンテ・クリスト伯』、『黒いチューリップ』を世に出した強者。
勇ましい小説を次々書き上げているように、射撃の名手でも有りました。ある日、同じ射撃の名手である友人と決着をつけようという事態になります。くじを引いて負けたほうが自分を撃つ、というゲームに負けてしまいます。
彼はピストルを握り、書斎へ入ってドアを閉めた。数分後、書斎の中から大きな音がしたので心配した友人達が中へ入ってみると、そこにはピストルを片手に立ち尽くしたデュマの姿があった。彼はこういったという。「驚くべきことが、起こった。私としたことが、撃ち損じた」と。
そうした逸話が残る豪傑の作家だったようです。27歳の時からベストセラーを連発して富も有りました。子供の数も多かったようです。人数ははっきりしません。話はちょっとそれますが、フランスでは混血したほうが血が強くなる、という考えがあります。日本の徳川家の嫡流重視とは逆ですね。
そう言う考えがあってのこととはいえませんが、『椿姫』を書いたアレクサンドル・デュマ・フィスは私生児でした。金に糸目をつけない、できうる最高の教育を受けます。20歳の時に高級娼婦マリー・デュプレシと出会い、恋に落ちた。マリーは間もなく病死するが、この時の思い出を『椿姫』として出版。パリ演劇界で注目となり、経済、文学両面で大成功していきます。後にロシア貴族の娘と結婚。孫はフェンシングでオリンピック・フランス代表として活躍します。
デュマの代表作と成る『椿姫』が実体験を元にしたように、ヴェルディ自身も自らの境遇との暗合を強く意識します。ジュゼッピーナとヴェルディはまだ、籍を入れないままの同棲状態であったこと、ジュゼッピーナには父親違いの3児があった。ヴェルディの先妻マルゲリータは長男を産んだ後、体調が優れず1840年に亡くなっていた。長女ヴィルジーニアと長男イチリオも1歳余りで命を終えている。
しかし、先妻マルゲリータの父親はヴェルディの支援者でもあったのを気遣い、後ろめたさはあったと思われます。ジュゼッピーナとの関係は、その一年前(1839年)から続いていた。
ヴェルディは子供ころ、旅回りの楽団や村の教会のパイプオルガンで音楽に興味を持ちます。8歳の時に両親から中古のスピネットを買ってもらいます。スピネットは鍵盤楽器で、作曲家が旅行の時に携行する鍵盤だけのピアノです。その演奏法を教会のオルガニストに学びます。そレがやがて教会のパイプオルガンを任されるまでになり、音楽好きの商人の知るところとなります。商人の名前はアントーニオ・バレッツィ。最初の妻と成る、マルゲリータの父親です。人の縁というのは面白いですね。
この後に義父となる商人はヴェルディの音楽の才能に感心して、音楽学校へ通う支援をします。その頃からバレッティ家に出入りするようになり、17歳の時にはバレッティ家に住むようになりマルゲリータと親密な間柄になっていったのでした。結婚したのは22歳の時。
子供は幼い時に亡くなっているし、娘が病死して13年経過しています。それでも支援を続けたバレッティは、とてもヴェルディの音楽が好きだったのでしょう。女遊びはひっきりなしのイメージが強いヴェルディですが、気持ちの良い好人物だったことでしょう。後の話になりますが、オペラはすべてが大ヒット大富豪となった作曲家の一人です。亡くなる前に残す財産で『音楽家のための憩いの家」を建設。働けなくなった音楽家が余生を送るための施設として、115年経て現在も存続しています。
ヴェルディのオペラに登場する父親は、どれも尊敬される存在として輝いています。もちろん歌劇《椿姫》でも第二幕の重要な要素として登場します。
この《椿姫》のタイトルですが。原作となったデュマ・フィスがつけた意味は『椿の花の貴婦人』。ヒロインの名前はマルグリットでした、のをヴェルディはヴィオレッタと変えます。『すみれ』の意味ですね。日本では『椿姫』となっているのがややこしさなのですが、椿の花が良く似合うスミレさんと考えれば良いでしょう。
薩摩は公武合体派として会津との間に協調声明をしていたのに、突然、討幕派に豹変。長州に新式銃の融通をしている。それはやがて大政奉還(1867年)へ歴史を動かします。NHK大河ドラマ『八重の桜』の2013年4月14日、21日の放送で将軍家茂が病没し(1866年7月)、孝明天皇が崩御(同年12月)するまでが登場しました。
ドラマの中で勝海舟が象徴的なセリフを言っています。
「徳川幕府開闢から250年、大木に育ったが中にはむろがあちこち出来てしまっている。ペリーが来航している。目先を転じる時なのだ。」
ペリーの黒船が来航したのが1853,54年。歌劇『椿姫』は1853年に初演されました。作曲はオペラ王ジュゼッペ・ヴェルディ。1813年生まれで、今年生誕200年を祝います。歌劇『椿姫』は現在、オペラ十八番中の十八番として受容されています。一見大衆的なドラマと美しく解りやすい音楽で綴られているオペラともみえます。
確かに『椿姫』の音楽はヴェルディのオペラの中でも別格で、これほど多くのヒットナンバーが次々と登場するオペラも珍しい。前奏曲は第1幕、第3幕とも、オーケストラコンサートで良く演奏されます。《ああ、そは彼の人か》、《プロヴァンスの海と陸》、《過ぎし日よ、さようなら》といったアリア、《花から花へ》の夢の様な二重唱。それに《乾杯の歌》はオペラの合唱曲として親しまれています。耳馴染みのあるナンバーを順番に聞くだけで、歌劇のストーリー全体を追うことが出来るのは、モーツァルトの《フィガロの結婚》や《魔笛》、ビゼーの《カルメン》が思いつく。
しかも序(前奏)曲、アリア、重唱、合唱(、バレエ音楽)と歌劇の構成要素の全てにおいて、それらは単独でも演奏される機会の多い名曲揃い。中でも《椿姫》はドラマの流れが解りやすい、その本質は奥深いものですがオペラの聴き初めには持って来い。特にラストの悲劇性は日本の歌舞伎や、芝居に通じるところに親しみを感じさせるのでしょう。
音楽の良さと、ドキドキハラハラ、喜怒哀楽があって飽きさせないドラマ。そして劇場を出た後でも何か、人と人の在り方を考えたく成るものを心に残してくれる。ヴェルディは美しい音楽の娯楽性だけではなくドラマも重視した。
日本に黒船が来航した頃、ヨーロッパのオペラ界事情はベルカント・オペラの二大巨匠、ベッリーニとドニゼッティが世を去っていた。ロッシーニはフランスに住んでいましたが興味はオペラではなくレストラン経営に夢中。ヴェルディが世に出る時期が到来していたのです。《椿姫》を作曲した時は40歳で、劇場支配人や出版社にも発言力を持ち、自分の意志を通せるようになっていた。当時も今も、劇場が上演演目を決めています。作曲家はそれに合わせるしかありません。しかしヴェルディはパリで《椿姫》の芝居を観て、いたく心打たれてオペラ化すると決めます。
どうしても《椿姫》は自分がオペラにしなくちゃいけないんだ。そうした責任感、作曲意欲の充実期であったこと。神話や歴史物、王宮物の優雅な人物が登場して最後はめでたしめでたし、私たちが安心して生活できるのは王様の栄光があってこそもたらされるのです。ありがたや、ありがたやで終わるだけのオペラではなく、人間同士の真実性と、心ときめく良質な娯楽性をヴェルディは目指し音楽とドラマの合体を達成します。だから、ヴェルディのオペラは舞台で演じられる歴史ドラマの背景に詳しくなくても登場人物の気持ちは感じ取りやすいのです。
人間の芸術を目指したオペラの誕生を理想としたヴェルディのオペラ改革。一方には芸術至上主義のヴァーグナーがいました。ふたりとも1813年生まれ、今年生誕200年を祝います。題材的にヴァーグナーは人間の非現実的な世界=神話やメルヘンを媒介として人間の姿=心理状態、気持ちが行ったり来たりする様を投影しようとしている。現実世界を題材として扱うことで、ヴェルディは自分のオペラを見た人がそれぞれに己を重ねあわせて解釈させることでドラマを身近に感じさせようとしたかったのかもしれない。オペラは男と女の愛憎と一緒に、家族像を描く。ストーリーは若い男女を中心だけど、父親像がヴェルディ、ヴァグナーともに存在を外せない。絵画の中に画家が自分の姿を書き入れることがあるように、オペラに登場する父親は作曲家自身であることが感じられる。
歌劇《椿姫》では、ひたすらヒロインに恋焦がれている若者。ヒロインは若者が『恋に盲目』状態だと何処かで感じてる。父親はそこを経験者として感じ取っているのか、表向きでは若者の妹の結婚話のさわりになると話を向け自分を敵にさせることでヒロインの心の枷を除いてやろうとしている。
ヴェルディとヴァーグナーはイタリアとドイツでオペラ王と云われるようになります。ヴァーグナーの楽劇《ローエングリン》は1850年の初演で、歌劇《椿姫》は様式を踏まえた印象を・・・第一幕には特に感じます。互いに発表されるオペラには接していて、吸収できるものは吸収しあっています。ライバル意識を持っていたのはそれぞれの取り巻きである後援者や作曲家、ヴァーグナーの死後、ヴェルディが世に出した歌劇《オテロ》でのヴァーグナー路線に転向したような豹変は周囲を戸惑わせた。作曲の手法は違っていても、神話や歴史を伝えて何か教訓するのではなくて、ドラマを重視してオペラの中の人間を身近に感じさせ、娯楽性も要素として重視する。創りたかった目標は同じだったのです。
大政奉還・・・それまでのオペラの様式を解体したのは、ヴァーグナー。ヴェルディは薩摩藩の様だとするのはこじ付けがましいかもしれない。しかし、維新と日本の文化芸能が前後どう変化したかは結びつけて紹介されることがない。ヨーロッパの演劇や音楽は、かわら版的な位置づけでも有りました。
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